7号 2015/12/13 (通冊106号)
発行:関西農業史研究会
農業の歴史と文化のアゴラ
稲作伝来説の再考
伏見元嘉 m-fusimi@hb.tp1.jp
わが国の農業のメインストリームは水田稲作である。
そしてその始まりは、「灌漑水田稲作」が朝鮮半島より伝来したものだとする見解が主流をなしている。しかし、最古の水田稲作遺跡とされる佐賀県の「菜畑遺跡
」の出土状況からみれば、前稿で述べたように水田と農具の機能や、水田雑草種の夥しさなどから疑念が生まれる。そこで稲作の起源と、
グローバルな普及の過程での技の変遷から、わが国の水田稲作の起源を改めてみつめてみた。
稲作の起源は大陸の長江下流域の河姆渡遺跡(紀元前4880±90・今から約7000年前)と、その周辺に求めることが現在では定説となっている。
そこでは湿地に生えたイネを、骨耝(こっし)と呼ばれる動物の肩甲骨に柄を付けた一本鍬で切り分け、湿地のマット状に広がる湿地雑草根を取り除いて移植し、
イネの多年生を生かして収穫することが始原で、その後に湿地周辺の微高地を水田として整備して収穫量の多い田植え方式の稲作に展開している。
長江周辺からアジアに広がって行くことになるが、受け入れた地域ごとに風土に応じて様々な「農法」に変化することが想定できる。
田中耕司氏は稲作を受容した地域の随伴する「農法」を含めた詳細な観察をして、温帯ジャポニカの田植え方式に執着した「中国型」稲作、インディカ種の「インド型」稲作、インディカ・熱帯ジャポニカ(ジャワニカ)種を併用する「マレー型」稲作と大別して、「マレー型」が本土に至っていた可能性を指摘している。 わが国での稲作の始期を考えるには、当時の人々の生活背景を考慮せねばならない。
縄文時代の中末期には「寒冷化」という大きな環境変化があった。寒冷化によって海退現象が起こり、海岸部の魚貝による生活が出来なくなる。 内陸部でも堅果の大幅な減収により生活が成り立たず、ナラ林文化圏の集落遺跡が激減している。そこからは寒冷化によって、ナラ林文化圏の人々が
照葉樹文化圏へフロンティア活動を行ったとも想定できる。
以上のような基本的なことを柱として、稲作伝来論を再検討してみた。
まず、田中氏の「マレー型」が本土にまで到達していたのではないかという指摘を、補足してみる。
琉球島部嶼では近世や近代でも本土と異なって水牛による踏耕など「マレー型」の稲作が行われていたことが確認されるが、古代の水田遺構が皆無で、
土器の出土が極めて少なく、海岸の台地上に残る貝塚遺跡や地形的な要因から、漁労に重点を置いた生活をしていたとされる。しかし水田遺構が検出されない事情は、
琉球島部嶼の地理歴史を考慮する必要があると考えている。
水田適地の少ない島嶼部で適地を持つ石垣島には、近年に天然記念物に指定された「津波石群」がある。その中の一つの巨大な津波石は、約3400年前に打ち上げられ、約2000年前に現在の場所に移動し、
江戸時代の津波の際に回転しているとされる。江戸の津波では死者が約12,000人と大きな被害が記録されている。このように津波が襲えば、水田遺構も検出されず、
それ以前の土器も検出されても砕片となろう。
そこからは津波によって低地で行われる水田を失い、高地で行われた焼畑だけに限定されて生産力を大きく下げてしまい、フロンティア活動が起こることがみえてくる。
藤原宏志氏は宮崎県の桑田遺跡で熱帯ジャポニカ種のイネを検出しており、「マレー型」の焼畑が琉球島嶼部のフロンティア活動によって到達していることは確実である。
ここで採集・狩猟・漁労の成果が大きければ、焼畑に終始して労力の掛る水田稲作に移行させる必要もない。また、水田の造築を行える大きな集団ではなかったとも想定できる。
周辺の照葉樹林文化の焼畑を行っていた集落でも、持ち込まれた「マレー型」の焼畑は農事に過ぎず、技の格差がほとんどないので受け入れられよう。
この琉球島嶼部からのフロンティア活動によって伝えられた「マレー型」の焼畑が菜畑遺跡に及んで、ここで前稿で述べたような「古代日本型」稲作に結実したとみている。
北九州の初期稲作遺構に限るように、畦杭・畦板が用いられた水田が検出される。「灌漑水田稲作」が伝来したとするならば、必ずしも水田適地でない場所で
敢えて労力が掛かるそれらを用いることはなく、適地を選んで開田されるはずである。この畦杭や畦板を用いるのは、ナラ林文化圏でみられる堅果のアク抜きのための
水さらし場の築造技術が転用されたと考えられる。さらに述べれば、伝えたとする人々は農法といえるレベルの稲作技術を持っており、
それに伴う造田の土木技術も伝わるはずである。わが国の初期水田遺構は小畦を用いる小区画水田で、田植え方式の「中国型」稲作は田に入る頻度が多いところから、
この様な田では行い難いものである。伝える側では、すでに人の歩行に耐える幅を持った強固な畦を築き、それに伴って区画も大きなものになっているはずである。
従来唱えられてきた大陸や朝鮮半島からの伝来説を、フロンティア論でみる。
菜畑遺跡の時代での大陸では、「殷」や「周」の時代に相当するようである。
陸続きの大陸では集団間の抗争が起こりやすく国家という体制が必用となるが、統治を行うためには民を土地に緊縛して、兵役や租税を負担させねばならない。
殷は後に俗称・蔑称で「商」と呼ばれたように、人々は商業行為を好んでおり、民を土地に緊縛するための農本主義の導入が急務であった。殷に変わって周になるが、
旧支配者やそれに連なる者は新しい統治の邪魔になり抹殺・追放されるが、民は兵や租税の負担者として土地に留める必要があり、大きなフロンティア活動は起こり得ない。
仮に起こったとしても、海洋民族ではないこともあって、広大な大陸の辺境に収斂されよう。
朝鮮半島でみれば、菜畑遺跡の時代はわが国(日本列島)と同様に国家がまだ成立していない。大陸の「燕」の時代になって(紀元前二世紀初め)、
大陸と朝鮮半島の付け根の部分に国家が誕生している。この時代になっても、中・南部は山や谷で隔てられた集落が小国家状にあった。仮に韓国神話や伝承によって
大きく時代を遡るとしても、小国家が抗争した場合には敵の敵は味方ともなり、併せて寒冷化による海退現象で未利用の生活基盤とできる土地は随所に見出されるはずで、
フロンティア活動は半島内で収斂されよう。
古代中国の中原や、朝鮮半島の風土の下では農業は畠・畑作が主流になる。そこに、農法の段階に進んでいた「中国型」の稲作が伝えられても、
畠作や焼畑という農事や農術を取り込みながら狩猟や採集に比重を置いていた人々には、格差・相違が大きすぎて、とても受容することはできない。
また朝鮮半島では前稿で述べた水田作を行うための必需農具である「畦塗り具」の検出が、わが国の弥生時代中期に相当する新昌洞遺跡から出土した
卓球のラケット状の至って素朴なものが初出となる。菜畑遺跡では「諸手鍬」と効率的だが、新昌洞遺跡の出土品はそれよりはるかに後進性を示す。
朝鮮半島での木製農具の検出は畠・畑作用の物が多く、水田遺構も「中国型」には不向きな小区画水田で、稲作での先進性はみられない。
そもそも稲作の朝鮮半島伝来説は、考古学調査によって早くに南京遺跡や松菊里遺跡でコメを検出し、わが国での朝鮮半島系遺物とみられる大量のモノの検出がありながら
水田遺構の検出が遅かったところから推測として唱えられ、それがモノと農業技術の相違を認識することもなく、繰り返し述べられてきたことによって
定説となってしまったようである。また定説には「灌漑水田稲作」と、近現代に行われる「中国型」稲作法が唯一の方法であるとの認識も含まれている。
わが国での水田稲作は、照葉樹文化圏の北九州にナラ林文化圏のフロンティア活動が及んでいて、そこに琉球島嶼部からのフロンティア活動が加わり、
それらが融合したところに生れたと考えている。
〔主要参考文献〕
渡辺忠世著作代表『稲のアジア史1-アジア稲作文化の生態基盤』(小学館、1987年)
陳文化・渡部武編『中国の稲作起源』(六興出版、1989年)
厳文明「中国稲作農耕の起源および早期における伝播」(日本考古学協会編『シンポジュウム日本における稲作農耕の起源と展開』学生社、1991年)
田中耕司「マレー型稲作の広がり」(『東南アジア研究』29巻3号、1991年)
藤原宏志『稲作の起源を探る』(岩波書店、1998年)
佐々木高明『稲作以前』(日本放送出版会、1971年)
佐藤洋一郎『稲のきた道』(裳華社、1992年)、同『稲の日本史』(講談社、2000年)
石垣市教育委員会文化財課『石垣島東海岸の津波石(つなみふうしい)群』(石垣市HP)
来間泰男『〈琉球国〉と〈南島〉』(日本経済評論社、2012年)
黒潮文化の会編『日本民族と黒潮文化』(角川書店、1977年)
德永光俊『日本農法史研究―畑と田の再結合のために―』(農山漁村文化協会、1997年)、同「東南アジア農業を比較史的にどう見るか」(『大阪経大論集』第61巻1号、2010年)
田中耕司「フロンティア社会の変容」(矢野暢編集責任『地域研究と「発展の」論理』(弘文堂、1993年)、
同「東南アジアのフロンティア論にむけて・開拓論からのアプローチ」(坪内良博編『〈総合的地域研究〉を求めて』京都大学出版会、1999年)
安田善憲『環境考古学事始』(日本放送出版会、1980年・洋泉社、2007年再刊)
原宗子『「農本主義」と「黄土」の発生-古代国家の開発と環境2』(研文社、1994年)
井上秀雄『実証 古代朝鮮』(日本放送出版協会、1992年)
武田幸男『朝鮮史』(山川出版社、2000年)
早乙女雅博『朝鮮半島の考古学』(同成社、2000年)
韓国考古学会編・監訳者武末純一『概説 韓国考古学』(同成社、2013年)
西谷正『古代日本と朝鮮半島の交流史』(同成社、2014年)