5号  2015/4/15 (通冊104号)
発行:関西農業史研究会
会員の論文の要旨集  (2014年以降)

   島原の乱、福岡藩本陣における藩主の食に見る機能と食文化 -御台所日記を通して- / 橋爪伸子 クリック⇒
   植民地期朝鮮における普通学校の農業科と勧農政策 ―1910年代を中心に-  / 圡井浩嗣 
   農業機械工業に見る「ものづくり」/ 堀尾尚志 
   「実態保存」としての技術映像 / 堀尾尚志
   在来製鉄業と呉海軍工廠-田部家文書の分析を中心に- / 平下義記
   明治の中の「旧藩」―明治24~26年旧福山藩領「義倉事件」の分析― / 平下義記 
   在来製鉄業における鍛冶屋部門の長期経営分析―田部家を事例に―  / 平下義記 



島原の乱、福岡藩本陣における藩主の食に見る機能と食文化 -御台所日記を通して- /  大阪経済大学日本経済史研究所『経済史研究』17号(2014)、81-102
 島原の乱における福岡藩主二代黒田忠之の本陣台所の記録を素材として、出陣中の同藩主をめぐる食の機能と特徴について、場面(本陣、滞陣中、仕寄場、陣所等)、 行為(振舞、下賜、進上等)、藩主との関係性(家臣、他藩主、幕府関係者等)に注目して検討した。本陣での藩主をめぐる食は、 幕府(上使)、諸藩主、家臣等との関係性のなかで、身分制的秩序の維持、連帯性の強化、近親感の深化、政治的外交等の機能をもっていた。
 その特徴としては、藩主と家臣で食材および料理の種類、品数等の差異に階層性が認められた。攻防中の体力補給を主な機能とする家臣の兵粮に対し、 藩主の食は、領国内から輸送、現地で調達、進上された食材で、名産や異国由来の珍しい食品等で手数をかけた食膳が調えられ、 平時における支配階層の饗応にみられるような同時代の食文化の最先端を映していた。
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植民地期朝鮮における普通学校の農業科と勧農政策 -1910年代を中心に-/ 『熊本学園大学文学・言語学論集』21巻1号(2014.6)、72-112
 本論文の目的は、日本内地の尋常小学校に該当する朝鮮の普通学校で1910年代を中心に広範に実施された、農業科を核とする農業教育に焦点を当て、 その教育内容を具体的かつ実証的に解明することである。また、朝鮮総督府が、近代農学を習得した朝鮮人農民を植民地農政の「担い手」として どのように育成しようと試みたのかについても若干の考察を加えた。その結論をまとめると以下の通りである。
 まず、朝鮮人対象の初等普通教育機関である普通学校において、「朝鮮教育令」(1911年8月制定)など法令上の規定とは異なり、 農業科(「農業初歩」)が、国語(日本語)科と並ぶ重要な教科目として位置づけられ、準必修科目として扱われたことである。 その背景として、日本内地の高等小学校における農業科と普及と、戊申詔書導入にともなう併合前後期の実業教育重視方針の採用 という2つの要因を指摘した。
 次に、農業科の教育内容については、教室内での学科と教室外での農業実習のうち、後者に重点が置かれた。普通学校では、 学校園・実習地・学校林などの施設が整備され、第3・4学年を中心に農業実習が精力的に実施された。さらにその教育活動は、 種子・種苗の配布、「一坪農業」、卒業生指導など多様な形で学校周辺地域にも拡大され、その結果普通学校はあたかも勧農機関 であるかのような役割を果たすことになった。ちなみに、このような学校内外での農業教育は、各道の農業学校や種苗場などの指導・監督の下で行われており、 それはまさに10年代を通じて朝鮮農村に勧農体制が整備され、農事改良を普及させる「装置」として機能しはじめたことを意味している。
 最後に、10年代の普通学校の農業科は、総督府によって初めて政策的に実施された、朝鮮人農民の中から近代農学を習得した植民地農政の「担い手」を育成する 試みであったということができる。確かに、この時期の普通学校が設置数の少なさや就学率の低さだけでなく、教育内容の面でも朝鮮人側から受け入れられず、 極めて大きな限界を抱えていたことは事実である。しかしながら、普通学校で近代農学に触れた朝鮮人が、10年代に農村現場に輩出されはじめたことは、 20年代以降の植民地農政の遂行に多大な影響を及ぼす結果になったのである。

農業機械工業に見る「ものづくり」/ 『技術と文明』18巻2号(2014.3.30)、日本産業技術史学会、33-38
 機械に作物を合わせるという稚苗植えの発想は農業機械技術として世界的にも類のない独創であり、日本型脱穀機は、スポーク状の扱歯によって穂の部位だけを しごくという方式の脱穀機構が独創といえる。
 「ものづくり」という観念の基調は「日本の製造業は、日本の伝統的技術環境と蓄積の上に成り立っている」にあるといえよう。稚苗田植機も脱穀機も、 明らかに日本で独自に成立した技術であが、そこに「日本の伝統的技術環境と蓄積」あるいは「日本の伝統的技術の延長」なる性格をどうしても見出すことは できない。寧ろ「伝統」から自由であったからこそ生み出されたのである。
発想の転回に始まる開発過程や偶発的な出会いによる発明を契機とする開発過程は普遍的であり、どの技術文明においてもその性格の類似性を見ることができる。 あえて「ものづくり」という観念でもって位置づける必要があるのだろうか、否である。
 「ものづくり」という観念を安易に用いると、日本の文明的特性として個々の技術を見てしまう危険性を孕んでいる。 それぞれの技術の成立過程と性格をゆがめることに他ならない。技術を見る正当な観点ではく、観念の援用範囲と限界を見つめる必要がある。 技術史・技術論あるいは経営史等の分野で、あえて「ものづくり」なるタームを使う意味が、あるいは必要が果たして、どこまであるのか、恣意的に、 あるいは気分的に使われている用語を、学術の場において反省以前的に使うことは慎まねばならない。

「実態保存」としての技術映像/ 『SEEDer』11号(2014.12)、『シーダー』編集委員会、30-35
 機器や装置の動態保存には、それだけでなく、運転・操作の仕方や整備や部品の自作による補充など技術の伝承という意義がある。 しかし、動態保存が、使用されていた「かつて」を未来に「伝える」あるいは「残す」ことの全てではない。「動いている」ことと同等に残すべきことは 運転・作業あるいは保守等に関わる状況や事象である。そういった「実態」の記録と合わさって初めて技術というものが保存されているといえる。  歴史研究において、技術史研究においてもそうであるが、看過されてきたのが映像である。史料における文字情報よりもはるかに「実証」的である。 技術映像は、機器や装置の「動態」を記録しているだけでなく、作業そのもの、実際に運転されていた状況、工場なり作業場の雰囲気までも伝える。 これらも技術そのものの一部であり、その技術が生産の場で存在していたことの記録である。動態、静置を問わず博物館に保存されている機器が、 生産の場にあった当時の「実態」を保存するものである。これが本稿で「実態保存」なる概念を提唱する所以である。

在来製鉄業と呉海軍工廠―田部家文書の分析を中心に― / 河西英通編著『軍港都市史研究Ⅲ・呉編』(2014.4)第3章、79-113
 本稿は近現代における在来製鉄業と海軍需要、とりわけ島根県の大規模生産者田部家と呉海軍工廠の取引関係の考察を主題とした実証研究である。 本稿の分析視角とその含意を整理する。第1の分析視角は「田部家製鉄業において呉海軍工廠は如何なる位置にあったのか、その位置は時期的に如何なる変化を示したのか」。 その答えは、日露戦争期に急速に拡大し、その後も急速に減退する、というものであった。したがって海軍需要への急速な拡大への対応は(減退局面も含めて)、 在来製鉄業者にとって最も重要かつ困難な課題であった。第2の分析視角は「そこで形成されていた取引関係は、田部家製鉄業の生産局面に、 如何なる特質を付与していたのか」。その答えは、個別生産拠点のレベルにおいて、生産回数・生産効率の変化として立ち現れていた。 その取引関係は、大量生産に不向きであるという在来製鉄業に固有の課題を成功裡に回避させるモメントを付与していたのである。

明治の中の「旧藩」―明治24~26年旧福山藩領「義倉事件」の分析― /  『史学研究』287号(2015.3)、広島史学研究会、32-50
 士族や旧藩主、地域社会で蓄積されてきた地域資産、これらは近世社会から近代の地域社会が引き継いだ歴史的な「遺産」である。 それは、廃藩置県後の地域社会である「旧藩」の中でどのような位置付けが与えられていたか。この問題を解明するため、 本稿では、明治24~26年にかけて旧福山藩領で起きた「義倉事件」の復元的考察を試みた。旧福山藩士族は義倉の経営権への関与を狙って、 訴訟事件や旧藩主への請願運動、地域社会での遊説などを試みたが、いずれも失敗に終わった。その過程では、 「遺産」の相互関係は明確な必然性のない「徳義」と称されていたこと、その関係を安定化させるために「法理」が持ち込まれることを発見した。 以上、「旧藩」の解体は「徳義」上の関係を「法理」で裁断するところから始まっていく、と展望した。

在来製鉄業における鍛冶屋部門の長期経営分析―田部家を事例に―/ 『広島経済大学経済研究論集』37巻3号(2015.1)、同大学経済学会、27-41
 本稿は在来製鉄業における鍛冶屋部門の研究である。従来の研究史は鈩部門の生産量に注目してきたため、鍛冶屋部門の存在を研究視角に十全に組み込むことができていなかった。 それに対して本稿は島根県の大規模生産者・田部長右衛門家の所蔵史料を利用して、鍛冶屋部門の長期経営分析を試みた。 具体的には、まず「鍛冶屋方勘定出目銀座写」という帳簿史料の批判的検討を行った。そして、この史料の内在的分析の中から、近世/近現代における鍛冶屋経営の質的変化や、 鈩部門と鍛冶屋部門の生産動向不一致、長期的経営パフォーマンスの低下といった事実を発見した。