4号  2015/4/12 (通冊103号)
発行:関西農業史研究会
農業の歴史と文化のアゴラ
最古の農具―水田稲作起源の再考
伏見元嘉 m-fusimi@hb.tp1.jp

 わが国の文化は、「稲作文化」であるとされている。
 その起源をめぐっては、主として考古学の分野で論じられていて、その著作は100万都市に住む筆者の身近な図書館にあふれるほどに多いのだが、 それらの記述に大きな疑問を抱いている。
 かつて、金関恕・佐原真両氏は佐賀県唐津市の菜畑遺跡で出土した夜臼式土器を伴った稲作痕跡から、弥生時代を前倒しすることを説かれ、 佐原氏が館長を勤められた国立歴史民俗博物館を中心として継承されていて、その説が大勢を占めている感があり、さらに疑問を深めている。
 その部分を、再見して疑問の解消に努めてみた。
 イネの種としての検出は菜畑遺跡より古くからあり、それらの遺跡ではイネ・アワが随伴するので、そこからは焼畑によって栽培されていたと言えよう。  縄文時代末期の焼畑を復元すると、福岡県の四箇遺跡などのようにイネ・アワ・ムギも検出されているところから、焼畑では二毛作が行われていたことが明瞭である。 つまり、ムギはイネやアワとは栽培期間が異なることと、成長期に寒気に触れないと結実しないからである。
 他方、イネやアワが混植されていたようだが、イネはC3型植物なのでC4型雑草と発芽成長期の光合成活動で競合が起こり、イネは負けてしまう。 雑草種が焼き払われた初年度の焼畑では、それなりの収穫が得られるが、翌年度以降には雑草との競合に負けて、ほとんど収穫が得られないことになる。
 焼畑を行うには、周辺に火防地帯を設けるため日常で用いる掘り棒や石斧などを使い、播種にも掘り棒で間に合い、収穫にはこれも日常で用いる石包丁などがあればよく、 特段の農具は必要でない。
 菜畑遺跡は背後に山を背負い、前面には海浜砂丘を経て海が控え、現在唐津城の残る丘陵に囲まれた湾に集落東方からは松浦川が注ぎ、海の幸が豊富だったようである。
 遺跡調査に参加された中村純氏によれば、遺跡全体から草木炭が検出されており、住居背後の山や住居周辺でも焼畑を行っていたようである。
 山からの細流や山麓の湧水が平野部に流れ込み、海浜砂丘によって流れが遮られた湿地があったことが想定でき、 その周辺でも行われた焼畑の混植イネが湿地に成長することが想定できる。
 古代中国の表現では収穫後の残滓を焼き、水が田を耕すところから「火耕水耨(かこうすいどう)」と呼ばれるが、それに類似した行為が湿地で行われたことになる。 同遺跡の調査に参加された笠原安夫氏によれば、湿地雑草のアリノトウグサの炭化種を大量に検出されているので、湿地にも火が及んでいるのは間違いがない。
 翌年に火耕水耨を行うが、及ばなかったところで越年したイネの古株からヒコバエが生え、それが成長して勝手に結実する。それに気づいた菜畑の人々は、 ヒコバエの生えた稲株を石包丁などで切り分け、湿地を足でコジリそこに植える湿地栽培に至っても不自然ではない。
焼畑ではほぼ初年度だけの収穫だが、湿地稲作では翌年も収穫量は若干減少するが手間も掛けずに収穫に至る。当時としては優れた生産性を持っていたことになる。 これらが第12~9層に至る長い期間に、焼畑と並行しながら行われたようである。
 イネ・米への需要が徐々に高まる中で、湿地への移植が限界を迎えると、湿地の下流や水源周辺を掘り棒と手や足を使って簡便な畦を造り、 湿地の面積を広げていくことになろう。表土には草や木が生えているがそれを焼き、根を掘り棒でコジリ起こす。地表は緩やかであっても傾斜を持っているところが多く、 これを足で均すと残った木の根などで負傷することも多く、平滑・水平にするための均し鍬が必要となる。そこに導水して水耕された表土を足でコジて、 ヒコバエの生えた根を移植する水田稲作が始まる。いわば、湿地を拡大する行為が水田を生むことになる。
 面積を広げる過程で、整備した水田の傾斜下方を新たに畦を3方に造っていき、上方の畦の一部を、上方の水田に必要な水位を保てる程度に低くすれば、 下方の田にも水が回る「畔越灌漑」ができる。自然の地形と水源水量によって、自ずから田の面積と枚数が決まってくる。 水源流が一定であれば湿田として稲の栽培に有効に機能するが、時として不足して田が干上がればイネが弱りあるいは枯れてしまい、陸生雑草も繁茂して収穫が極端に落ちてしまう。
 そこで必要な湛水状態を保つには、「畦塗り」が重要となってくる。
 農学では、田の底面(床面)からの浸透と畦からの浸透を比較すれば、畦からの浸透が多いことがわかっている。そのメカニズムは省略するが、 畦からの浸透、言い換えれば漏水を抑える必要が生まれてくる。
 初めは恐らく手足を使って畦に周辺の土を使って壁塗りの要領で補強したと想像できるが、畦の外側を補強しても漏水は止まることは少なく、 水田の表土を掬い取って畦の内側に行えば、効果があることに気づく。
 手を使い、あるいは扁平な石や木片を使って田の表土を畦に塗り付けることをしていたが、田の周囲の畦を全て塗るのは大変な重労働となってくる。 そこで、諸手鍬という最初の水田稲作用の「農具」である畦塗り具が生まれる。これが夜臼式土器、大陸型の石包丁、「えぶり」とされた巾広鍬、 巾の狭い諸手鍬の出土を伴う第8層下になる。
 土器や石包丁は日常の雑器で、巾広鍬は田の造成を行う均し具・土木具になり、諸手鍬が本格的な最初の農具なのである。決して「耕す」道具ではない。
 越年した稲株からのヒコバエによる稲作では、田植え方式と違って水田雑草も繁茂することになり、笠原氏が行った水田雑草種のコナギなどの多量検出と一致する。
 筆者は減反政策が行われた時に、減反対象となった田を湛水保善された所で、越年株からのイネの成長を2年間実見した。
 寺沢薫・寺沢知子両氏は、同様の田で収穫計量を行い、反当り玄米換算で7斗6升5合と言う数値を得ている。さらに古代の出土頴稲束・枡、律令の租税規定から、 ヒコバエによる稲作が行われていたと指摘している。
 筆者は荘園の散用状・検注書を調べ、そこには斗代(課税額)の低い「定田」と、斗代が高く種籾の記述が伴う「佃」との二種類の田が併存しているところと、 太閤検地に至るまで斗代が低いままで続き、それを補うように加地子・雑公事銭を随時引き上げている荘園を見出し、現行の田植え方式が唯一の稲作法でないことを確信した。
 筆者はこの稲作法を、「古代日本型」稲作・多年生稲作法と仮称している。
 今日の考古学では、現行されている田植え方式の稲作法が唯一のものだとして、それによって生業・文化が大きく転換したとしていると捉えており、 そこから弥生時代遡及説や弥生時代の見方が生まれているが、前述したように焼畑でのイネ栽培より収穫が多いが、 それほどの生産性を持たない「古代日本型」稲作・多年生稲作法が水田稲作の起源であり、それが律令の時代にも継続されているところから、 この時代を大きく見誤っていると考えている。
 稲作の伝来経路や、後に導入される田植え方式については、稿を改める。
 〈参考資料〉唐津市編『菜畑』(唐津市、1982年)/ 中山誠二『植物考古学と日本の農耕起源』(同成社、2010年)/
  寺沢薫・寺沢知子「弥生時代植物質食料の基礎的研究」(『考古学論攷』第5冊、橿原 考古学研究所紀要、1981年)/
  寺沢薫『王権の誕生』(『日本歴史』第2巻、講談社、2000年)